境内御案内

羽黒山・出羽神社 ~歴史に薫る修験の山~

出羽三山神社参集殿

地上2階、地下1階総床面積2,179平方メートル入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和63年7月2日に見事完工された。

鏡池
東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。

鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)

堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。
上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。

東照社

寛永18年(1641)、第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出た。
天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年(1645)藩主は社殿を寄進した。
爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきた。
明治時代に東照宮は東照社と改められ、現在の社殿(3間5間)は昭和55年(1980)に解体復元したものである。天宥別当の勧請のねらいは、東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものにすることにあった。

 

千佛堂(外観)

二百数十軀の仏像仏具を安置する建物として平成29年7月に竣工。

参集殿と霊祭殿を結ぶ役割も担う。当社崇敬会長の庄内藩酒井家台18代御当主酒井忠久氏よりご揮毫頂いた社額が掲げられ、天井には画家加藤雪窓揮毫の天井画竜頭が飾られている。

 

千佛堂(内観)

出羽三山は明治維新まで神仏を権現として崇める修験道の御山で、羽黒山は「羽黒山寂光寺」と称し、一山は仏教で奉仕していた。千佛堂に安置する250数躰の仏像の多くは、境内にあった諸堂や寺院に祀られていたと伝えられるものである。明治の神仏分離で出羽三山が神社となり、夥しい数の仏像仏具が山を下り散逸する中、酒田市に住む佐藤泰太良翁は私財を投じて蒐集し、宅地に安置堂を建立し奉拝した。昭和49年、子孫の佐藤完司氏は百年近く護り続けてきたこれらの全てを当社に奉納された。

霊祭殿

出羽三山は往古より祖霊安鎮のお山とされ、深い信仰をあつめており、ご先祖の御霊を供養する風習が現在も盛んに行われている。単層入母屋千鳥破風五間社造りの本殿に次ぐ、荘厳な建物で昭和58年に再建されたものである。

供養塔
羽黒山には破尺堂境外墓地を始め、御本坊平、南谷と歴代別当供養所があるが霊祭殿脇供養所は篤信者の供養碑も多く、霊祭殿建立と共に整備され一般参拝の方々の御供養が絶えない。
霊祭殿大天井鎮魂絵
故・熊澤観明画伯染筆奉納
鎮魂絵「天女と神龍」が描かれており、天女に導かれた御霊が龍(昇り龍・降り龍)に守護されて昇天すること願う意味があるという。
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