羽黒山は、神仏分離で最も大きな打撃を受けた所である。千年の伝統と慣習とを一片の政令で変革しようとする事に対する羽黒修験の抵抗は大変なものであった。あくまでも羽黒山を仏法で守ろうとする人々の抵抗が、却って政府の弾圧を強め、一山から徹底的に仏教臭を一掃させた。山内の諸堂社からは仏像仏器は除かれ、別当宝前院を始め山内30数ヶ院にのぼる寺院の破壊が行われ、山内清僧修験と山麓三百余坊の妻帯修験の殆どが復飾して神道に改めた。かくて、一山の組織と伝統が破壊され、仏像は山を下り、一山の衆徒は生活の手立ての為神道となり、日夜近侍した本尊をも手放さざるを得なかった。
当時の人々を思うにつけても胸に迫るものがある。この様にして、長い年月篤い信仰を捧げてきた本尊や諸仏躰が失われていった事は、数百万の信徒にとってもとても悲しいことであった。今でも羽黒山を寺院と考えている人々も多く、かつて聖観音を安置した本殿で「世の人の願ひも三つの山深く光は清き法の月影」と御詠歌を奉納する巡礼者もあとを絶たない。羽黒本社は庄内観音一番の札所であった。羽黒に詣づる人々が、先ず心に浮かぶのは、黒々と繁った老杉の中に、あまたの寺院が軒を連ね、古色蒼然たるあまたの仏像が安置されているイメージであろう。
私共が常に心惹かれるものは歴史を語る形象物であるが、残念ながら国宝の五重塔や鐘楼、本社など建造物にその跡を留めている他は絶えて見ることが出来なかった。
羽黒山から流れ出た仏像は実に数千体であろうと思われる。外国に出たもの、国内の博物館や美術館または個人所蔵となったものも多い。ところが先年故佐藤泰太良翁の蒐集になる大小合わせて約250躰の尊像(平安8、鎌倉72、室町50、桃山23、江戸70、その他)が寄進された。多くは羽黒から流出した仏像であるという。これを翁の姓をとって「佐藤仏像コレクション」と名付けて出羽三山歴史博物館に安置保存されている。 |