境内御案内

羽黒山・出羽神社 ~歴史に薫る修験の山~

山頂鳥居附近

参道の石段の尽きるところ朱の鳥居がある。もと江戸講中より寄進された青銅の鳥居があったが戦争で供出された跡に庄内の生徒や学童の寄付によって建立されたものである。鳥居の手前の坂を十五童坂といい、坂の左に、一山の貫主の住んだ執行寺跡、右に本社のかぎを取り扱った鍮取(かいどり)役という一生不犯の清僧修験の住んだ能林院が在った。また能除太子が登上の折、休息された場所とか、昇天のとき召されたのがこの場所にあったと伝えられる能除太子御挫石(おまし)がある。

蜂子皇子御尊影(左が金剛童子、右が除魔童子)

出羽三山御開祖・蜂子皇子は、推古天皇の御代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に稼檣の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救い給うなど、幾多の功徳を残された。民の全ての苦悩を除くという事から能除太子と称され、舒明天皇の13年10月20日御年91歳で薨去された。蜂子神社の御祭神として祀られ、御墓は羽黒山頂バス停より御本殿への参道途中にあり、現在宮内庁の管理するところとなっている。

蜂子神社(並んだ左側は「厳島神社」)

表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。

三神合祭殿(さんじんごうさいでん)
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。
現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。
建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。
平成12年、国の重要文化財に指定される。

三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>

羽黒山頂にあり、三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。

三神合祭殿内部

三神合祭殿は一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られており、月山・羽黒山・湯殿山の三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の造営が斎行されている。また御本殿長押には、二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書である。

月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例又臨時の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われる。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもあった。
内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀る。本社は大同2年建立以来、度々造替を行ない、近く江戸時代に於いては四度の造替が行われた。慶長10年、最上義光の修造を始め、明和5年に再造、29年を経た寛政8年炎上、文化2年再建されたが、同8年またまた炎上した。東叡山では再度の炎上に文化10年荘厳院覚諄を別当に任じ、本社の再建に当たらせ、文政元年1818年完成した。これが現在の本社である。
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